「2024年難病連リレートーク 聴いてくださいわたしたちのこと
~難病患者・家族の体験談を医療、社会に届ける~」資料抜粋
『理事長挨拶』
NPO法人
大分県難病・疾病団体協議会
代表理事 早野 真弓

本日のリレートークは難病患者それぞれの症状や思い、またご家族の思いなどの現状を患者同士で知っていただく機会にしたいと計画いたしました。私も妹が筋ジストロフィー症と言う難病であると聞かされたのが小学校高学年の頃だった気がします。二十歳までの命・家族で何ができるか?考えさせられた事を思い出します。
その当時とは、現状は変わっていますが、病気と折り合いをつけながら楽しく生活し、病気があってもできること、やりたいことを探している患者さんも沢山います。そんな患者さんやご家族の声を、生きる希望を失いかけ、心を病んでいる人々へ届けたい、と思っています。
大分SCD・MSA友の会
『介護を受ける側の戸惑い』薄田 ミキ

皆さんこんにちは、薄田(ススキダ)ミキと申します。神経難病と言われている脊髄小脳変性症(身体障害1種1級、障害支援区分5、要介護3)の電動車椅子ユーザーです。いつも外では穏やかな笑顔の人と言われますが一旦、家に帰ると老いた鬼嫁と家人からは言われています。生活廻りの話をすると、週2回デイケアにてリハビリ時々入浴、週4回は就労B型作業所の在宅ワーク、訪問リハビリと週2回のヘルパーに重度訪問介護の支援を受けています。それ以外は家族介護に依存した生活をしています。皆さんは難病については、どんなイメージをお持ちでしょうか。悲しく苦しい日々の話を想定された方もおられると思いますが、そんなことはありません。実はこの機会に皆さんに、私の愚痴を聞いて頂きたいと思います。主人一人、息子二人、愛犬1匹、テグーマウス1匹と庭のメダカや金魚、イシガメ2匹に増殖し続けてそのうちジャングルになるのではと思う程のたくさんの観葉植物に囲まれた賑やかな生活をしています。長男は別居、市内で独身生活を謳歌しています。友人や仲間に恵まれなかなか家に寄る暇がないようです。次男はオフィスワークを中心とした在宅ワーカーです。
そこで一番の問題児が主人です。結婚を機にJRから福祉の道へと転職してもう34年になります。恐らく仕事は頑張ってくれてはいるのですが、職場が別府にあることが夫にとっては幸で、私にとっての不幸か、平日は天気がいいと、時間がかかるのに真夏でも真冬でも自転車で通勤なんかするし、週末も私が用事を入れないと、直ぐにどこかに出かけて行って、汗びっしょりになって帰って来ます。何をやってるんだか。そんなわけで自宅にいることが極めて少なく、依存しようにも出来ない。これが悩みの種なんです。「我が家にも障害者がいるのよ」というのが、結婚してから変わらない喧嘩の種なのです。


主人も最近では少し考えたのか「今度の週末はサイクリングに出かけようかな。山登りに行こうかな」と告知します。すかさず私が「何時から何時まで」と聞いて、トイレの時間の心配をします。今は次男が在宅ワーカーであるから家に居てくれているので、何かあれば介護はしてくれるのですが、主人からは「子供に介護はさせるな」と厳しく言われているので、緊急時でない限りは頼まないようにしています。
トイレ問題も苦労は絶えないのですが、他にも入浴問題が立ちはだかっています。入浴はデイケアで週2回、時々はデイケアで男性職員が付くことがあって、その日は入浴を拒否します。デイケアで入浴しなかった日の主人の落胆ぶりはなかなかのものです。そんな予想外の自宅での入浴とデイケア以外の日の入浴は、主人と風呂場で裸の付き合いなんて生易しいものではありません。阿鼻叫喚の老々介護が繰り広げられます。主人は元気過ぎる分、無駄に力があるので洗うのも拭くのも激しいのです。主人に聞きます。職場で利用者さんにもそんなガチャガチャと洗うのかと聞くと「いいや、利用者さんの介護は仕事だから極めて優しくがモットー」だと自信満々に返って来るので驚きます。シャワーチェアから電動車椅子への移乗も「せーの、あー重てぇ」と目眩もなんのその、荷物でも投げるような具合でヒョイです。介護される方も一苦労です。
さて、話は変わりますが、還暦を過ぎてから織りと運命的に出会い、60の手習いとして始めたら虜になってしまいました。来る日も来る日もパタンパタンと、家人には決して覗いてはダメよと冗談を言いながら織り婆(オリバー)と化しているところです。さあ織り始めるよと言う時には、中島みゆきの歌ではないのですが、経(たて)の糸は主人と子供たちに頼まなくては始まりません。これがなかなかすんなりとは引き受けてくれないのです。嫌がる夫の機嫌と相談しながら、持ち上げたり誉めたり、遊びを勧めてみたりしながら、私にとっての生みの苦しみを経て、やっと横の糸は私という楽しみと創造の時間になるわけです。作品が出来上がると、経糸担当の家人の努力は知られることはなく、私だけが褒められることになります。

一つの布にかかる日数は約2週間位です。将来的には我が家のリビング風廊下を「アトリエ自在空間 織り婆ちゃん」と称して、誰でも気の向いた時にふっと立ち寄れて、織り機と糸と楽しく触れ合える場作りを目指しています。
最後になりますが、今後の私の理想の生活は、介護保険サービスの良いところと障害福祉サービスの良いところを上手に使って、家族依存を極力少なくして生活をしていくことです。ただ、トイレ介助にしても入浴介助にしても家族以外に身を任せることがいつまでたっても苦手です。家に家族以外の人が来ることもまだまだ苦手です。

主人は真逆の性格の人です。油断すると、どんどん他人を家に連れて来ます。誰とでも友達になってしまいます。こんな二人が引き続き老々介護を深めて行くことを考えると、ため息しかでないのですが、折角なのでこのリレートークを機会に、介護され上手を克服して行きたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。
脊柱靭帯骨化症友の会
『親指に感謝』阿部福世
私の手元に4冊のノートがあります。これは、3年間に3度入院した時のリハビリノートです。私が病気に出会ったのは、57歳の夏。当時、小学2年生を担任していた私は、教室の前の廊下で、危うく躓きそうになったのです。慌てて靴下を脱いでみると、左足の親指がブランブランになっていたのです。驚いてかかりつけの病院へ。「これは、足が原因ではないです。多分、脊椎でしょう。うちでは無理です。」と先生に言われました。何が何やらわからないまま、救急病院へ。レントゲン、CT、MRIなどの検査の後、先生に告げられた病名が、黄色靭帯骨化症でした。聞いたこともなく、え?何?という感じでした。

靭帯に骨化が見られ、神経に刺さっている状態で、その影響で、左足の親指の神経が弱くなっていると説明を受けました。しかも、原因や治療法もまだあまり解明されていない難病とのこと。呆然としました。
左足を引きずるようにして、8月6日の平和授業を終え、夕方・・・入院。
7日、手術する部位を確定するための造影剤による精密検査。この造影剤が強かったのか、10日の手術日まで、殆ど食事ができず、点滴だらけでした。 10日、いよいよ手術室へ。予定は2時間程度と聞いていましたが、実際には何と7時間。待合室で待っていた夫の様子を娘がリハビリノートに書き留めてくれていました。8月10日 15時頃、病院に到着。まだお母さんは手術中。弟とお父さんは待合室にいる。そろそろ終わる頃なのに、中々出てこない。お父さんは、ずーっとそわそわ、うろうろ。泣きそうな声で、「おせえなあ、何かあったんやろか。」と言っていた。
私は、術後この日記を読んで、嬉しくて泣きました。心配してくれてありがとう。
手術から5日間、背中の傷口から髄液が止まらず、ベッドから全く起き上がれませんでした。辛くて、痛くて、心細くて、死まで頭を過りました。15日にやっと髄液が止まり、起きあがり許可。思わず師長さんに抱きついて、よかったーっと叫びました。
17日から、リハビリスタート。生まれて初めての車いす。運転が難しい。立ち上がりスクワット、左足の電気治療、歩行練習、片足立ち等、きつくて苦しかったけれど、理学療法士、作業療法士の先生方の明るい笑顔と優しい励ましで、2か月乗り切れました。
リハビリノートより
9月7日 階段昇降。ふらついて中々うまくいかず落ち込む。でも、小林先生が、「ドンマイ!」と励ましてくれて元気戻る。かまぼこ板型足ふみが強敵。グラグラ揺れて倒れそう。また明日がんばろう。9月21日、退院。リハビリ通院する事になり、2年生担任続けられず、3月まで休職しました。翌年、足が不自由という理由で担任ではなく、家庭科・習字担当になりました。かなり寂しい気持ちになったけど、働ける喜びはありました。6年生の教室は、校舎4階にあり、毎日がリハビリでした。転んだら大変なので、走ってくる子どもにぶつからないように・・・ハラハラしながら歩きました。
あと2週間で退職という3月中旬、悪夢の転倒!! 勤務を終え、職員室から外へ下りる階段が、昼間降った雨で濡れていて、すってんころりん。力の弱い左足の足首の内側外側合わせて2本骨折。同僚に抱えられて、即入院。手術。
3月28日の離任式。同僚に車いす押してもらって参加。歩けない悔しさと送ってくれる全校生徒への感謝で顔が涙でぐちゃぐちゃになりました。
6月28日退院、リハビリに通いながら、ホルトホールのプールにも通い、ひたすら筋力をつける努力をしました。杖なしで歩けるようになったその年の10月、またもや親指脱力。
リハビリノートより
10月14日 またまた親指ガクッと脱力。入院した。レントゲン、心電図、血液検査そして恐怖の造影剤検査。気分悪い。1週間後に手術。がんばるしかない。
靭帯の骨化した部分を切除して、今回は3本のボルトを埋め込みました。前回のような髄液の漏れはなく、傷口の痛み以外は普通に我慢できてホッとしました。
1か月後退院。リハビリ通院の間はやる気があったのですが、その後、家に閉じこもるようになりました。これから先の不安で気分が落ち込み、好きな絵も描かず、テレビをボーッと見ている私に、娘が綺麗な花模様の杖をプレゼントしてくれました。このままでは駄目になると一念発起。ネットで探し、夢ひこうせんという作業所にボランティアで通うようになりました。身障者の皆さんと、楽しくおしゃべりをするうちに、私自身、心が温かくなって、足のことでくよくよするのはやめようと思えるようになりました。
私の朝は、左足の親指にテーピングすることでスタートします。隣の指と一緒にテープを巻きます。気持ちが明るくなってからは、痺れる足をさすりながら、「親指さん、いつもありがとね!」と声をかけています。病気と出会って8年目、私は今、竹田の長湯の温泉リハビリに月2回通っています。ドライブがてら、道の駅に寄ったり、温泉入ったり、楽しみながら続けています。これからも病気を相棒にゆっくり進んでいこうと思います。
